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三たび合唱を辞めて

2013年2月、私は人生で3度目となる、合唱活動からの離脱を実行した。その一年以上前から意向を一部の人に伝え、少し大げさに言えば徐々に手はずを整えて、所属していた合唱団を離れたのである。

合唱という音楽活動形態には、私にとって好ましい部分もあり、だからこそ所属していたのであるが、最も傾倒し拡大に努めるべしと思っていた高校生時代を含めて、常に、全面的に好きだったわけではない。今回合唱活動から離れたのは、単なる好き嫌いの他にも幾つか無視できない事情があるのだが、それはともかく、趣味の中での「一番」と言えるほどには合唱の心理的優先順位が高くなかったのは、合唱活動そのものに対する違和感を常に抱えてきたからに他ならない。

意に沿わないプログラムへの違和感

合唱活動は、本質的に、大勢で協力して行うものだ。活動内容に合意して、扱う曲目、演奏会本番の日程、練習の日時場所、その他の大小の決定事項を、かなりの大勢が共有して成立する。一般団員にとって、たとえアンケート等によって意見を聞いてもらえたとしても、自分のやりたい曲目が次の演奏会にかかるようにできる可能性はかなり小さい。もちろん、なるべく自分の好むプログラム傾向の合唱団に所属しようとするには違いないのだけれども、それでも、さしてやりたくもない演目が取り上げられる割合というのはとても大きい。歌いたい曲を人前で歌おうというのなら、カラオケに行って選曲した方がまず手っ取り早いのである。

それでも、祖述する対象の作曲家個人に興味があったり、指導する指揮者先生を敬愛してその方についていきたい、という動機があるのなら、まだ問題はない。例えば、J.S.バッハが好きで、バッハの曲を一生のテーマとして取り組んで行きたくて、バッハを主に演奏する方針の合唱団に所属する。これはとても筋が通っていて、成果の見込める道であろう。あるいは、曲目が何であれ、この指揮者の音楽観や指導スタイルが大好きでその指導の下で演奏活動ができるのなら本望だ、という価値観もあろう。歌がうまくなれれば、扱う曲など何でもよい、という人もいるに違いない。

けれども、私などからしたら、少なからぬ時間と労力を割く以上、どんなに高名なアーティストによる完成度の高い作品であれ、「どうして自分が今これに取り組むのか」という理由付けが欲しい。そして、「この人の作品ならば、一字一句違えずに演奏して間違いなく本望だ」と言えるほど好きな作曲家・作詞家・編曲家は一人としていない。題材やモチーフに遡って検証して、本当に自分の表現したいことと合致する納得できる表現がそこにあると思えるのでない限り、自分がそれを演奏する側に回りたいとは思わない。

小学校の音楽の時間に歌わされた曲目への、周りの子たちの反応を思い出せば、違和感のある内容の歌詞や楽曲を演奏する側に回りたくない、というのは、作者への失礼云々とは別で、当然の本音だろうと思う。もちろん、「やる」と決まって約束した後にぶつくさ文句を言うのは潔いことではないし、失礼だが、もとよりそうなる可能性のある活動をしない、というのは、合理的な選択であろう。

特に、自分が信じていないどころか好きでもない宗教を題材にして、あたかもその信者であるかのように、言葉や表現を大切にして歌えというのは、快くないどころか、私にとっては苦行でしかない。さらに、好きでもない宗教の公式な行事に招かれ、礼拝の場に立ち信者さんたちの前で、その宗教ゆかりの曲を、「信じてます」という顔をして演じて歌うというのはどんなものであろう。聖なるものに対する冒涜ではないのだろうか。その宗教団体所属の合唱団だというなら、入団した者の責任だが、一般の合唱団では、決して当然とは言えない事象だと考える。

私の周りで合唱活動を続ける人というのは、クリスチャンか、キリスト教に親和感のある人、あるいは宗教はほとんど何でもいい人というのが合計で大多数のようで、これまでこの件で共感してくれる人というのは片手で数えるほどであった。そういう環境では、私には居心地が悪い。それで、合唱界乃至この種の音楽界が本質として好きではないということになるのである。

聴衆伝達型モデルへの違和感

聴衆伝達型でない音楽」の項でも語ったように、私が合唱に認めてきた楽しさの本質は、演奏で何かを広く一般に伝えることではない。ホールで演奏会を開くことも、そこに大勢のお客様に来ていただくことも、そこで入場料をいただくことも、私にとっては楽しさに直結することではなくて、仕方なくそうなっていただけのことなのである。そもそも、自分が選んだわけでも、選曲に関与したわけでもない楽曲、自分の表現したいことと何も関係ない楽曲を演奏しておいて、それを通じて何かを伝えたいなんて気持ちが湧いてくるだろうか。かなりの割合で「練習しているうちに好きになる」という方もおられるが、私には、九割方の楽曲は、練習しているうちに違和感や変えたい点が見つかってかえって嫌いになるのだ。ちなみに、音楽に限らず、絵画でも小説でもことは同じだ。

けれども、合唱活動をして、それも一定以上の演奏水準を持った団に所属している以上は、演奏会にオンステしなくてはならない。練習も、自分たちが音楽を楽しむためではなく、演奏会をこなすために行わなくてはならない。音楽や歌詞の解釈を話し合う楽しみも最小限にし、演奏会に出せるギリギリ最低限の完成度に達した曲をできるだけたくさん作るのだ。

曲の仕上がり具合は、自分たちも楽しめるというには程遠い水準であるし、大部分の曲は、一度演奏したきりで二度と使われない。本当ならもっと味わえるはずの楽曲でも、およそ「音楽づくりの楽しさ」を味わえないような日程で扱われる。

繰り返すが、このような状態の演奏を伝えるために、お客様に来ていただきたいと心から思えるだろうか。私は否だ。元より、不特定多数に聴いていただきたくて音楽をしているのではないので、ますますもって、集客活動は憂鬱になる。殆ど義務感だけで、チラシを配ったりしてきたわけだ。

人数的不経済への違和感

合唱活動を活発に行うには、人数を集めなくてはならない。四部合唱なら、ブレスの関係から1パート4人以上と考えると、練習指揮や伴奏者も含めて20人規模。各パートがさらに上下に分かれても安定することを目指せば40~50人規模。オーケストラと対峙したりスケール感を出すには、さらに倍の80~100人規模。演奏レパートリーによって違うが、かなりの人数が集まらなくてはならない。

もっとも、パートの種類も多く楽器も持たなくてはならない、吹奏楽や交響楽では、もっと大変であろう。スピーカーを通さずにホールで演奏することを前提とした、多くの舞台芸術形態に言えることである。

この少なからぬ人間が、スケジュールを合わせて、同じ時空間に集まって準備を進めなくてはならない。それを60~70時間或いはその倍も積み重ね、他にも運営面の準備を積み重ねて、やっと本番ホールでの2~3時間分のステージになる。合唱界の中に居れば当たり前のことだが、これは一体どういうことか。

インド古典音楽を見ていると、個々人の修練は大変であるが、当日だけのリハーサルでも、即興で1演奏1時間前後の演奏を聴かせるのは当たり前である。主奏者と伴奏者が各1~2名といった極めて効率的で、場所を取らない構成で、愛好者には合唱を上回るほどの満足を与えるのである。これが1組か2組で、すぐに2~3時間の演奏会を組むことができる。

短い一曲一曲を十数曲から数十曲も楽譜通り間違えずに演奏するために、大勢が数十時間から百時間以上も集まって練習する形態と、少人数でその場で新しい長大な曲をすぐに紡ぎ出す形態。直接に比較するのが正当かどうかは別として、演奏会を開くための効率から言えば、後者の方がずっと高いと言えるだろう。それに、自分にとって深く関与感のある表現をお客様とその場で空気感を共有しながら作り出すという点で、はるかに創作性を持っている。

合唱曲では殆どの場合、書かれた音符や歌詞を一点一画も忽せにしてはならないのだ。演奏の中で表現しなくてはならないのは、作者の意図した表現であって、演奏者個々人の表現ではない。作者の意図を解釈するのも、演奏者個々人の仕事ではない。個々人がやってもいいが、最終的にまとめて統率するのは指揮者の役割だ。だからこそ、大勢が集まって、解釈を共有し、足りない表現技術を獲得したり合わせたりせざるを得ない。

大勢が集まることは、集団が好きな人には楽しいことだ。しかし、大勢で一緒に食事することも大嫌いな私にとっては、そんなことはどうでもいい。少人数で小回りが利くことこそよほど価値のあることだと感じられるのである。

結語

与えられた通りのプログラムを、一回限り楽譜通り演奏する ― 多少の演出は付けるけれど ― だけのことに膨大な時間をかけて、何の価値があるのか。思い出は残るけれども、そこに自分が加わる意義はどこにあるのか。自分のやりたい楽曲ができるならいいけれど、本当のプロでもないのに、どうして意に反したプログラムを意に反した会場で演奏することを受け入れなくてはならないのか。私の紡ぎたい音楽は、未来永劫、そこでは叶いそうもない。大勢で集まって練習するために多大な時間を掛けてきたけれど、楽しさも限られているし、人生の中で、時間と労力の無駄だ……。

私はこのように、合唱人としては有り得ない考えのもとで、合唱活動から離れた。申し訳ないが、古今東西の合唱曲を書いた作曲家のうちで、誰一人として全面的に好きだと申し上げられる方はおられない。ぜひとも合唱という形態で演奏したいと思える曲も、現時点では、世の中に一曲もない。合唱を知らずに言っているのではなく、小学生時代から断続的に、合計17年以上関与した上での結論だ。従って、将来とも、私が合唱活動に正式に復帰することはないだろう。


(最終更新2013.06.09)

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