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合唱活動と私(3)

高校生時代

高校に進学するときには、既に「もしあれば合唱部に入ろう」と思っていた。

クラスマッチと呼ばれる、春のクラス対抗体育大会の実行委員に選ばれた私は、その運営上の用事で自治会室(多くの高校の生徒会室)を訪れる。その場に居た先輩方が、これはいい所に一年生が来たとばかりに、それぞれの部活に軽く誘いかける。その中には、同じ中学校出身の先輩もいたが、偶然、この高校の合唱部、即ち「音楽智識研究会」略称「音智(おんち)」の部長もいて、私は即答で彼女の誘いに乗った。

「合唱」とか「コーラス」という単語は含まないが、私にとって、合唱のみを主目的とする団体に所属したのは、これが初めてだった。(小学校時のクラブ名は「器楽合唱クラブ」である)

歴史はあるものの、当時の状況は、コンクールの出場やコンサートの内容よりまずは維持存続が問題の弱小クラブであったが、私はかえって、合唱活動に対する飢餓感と、活動継続への悲壮感を駆り立てられ、この時期が最も純粋に合唱を「好き」だと言っていたと思う。従妹が、全国大会にも出場する強豪の高校合唱部に所属したこともあって、それを羨みつつ、自分たちも何とかしたいと思っていた。

実際、興隆したとは言えないが、そもそも私が入部しなければその頃に断絶したかもしれない部なのであるから、レベルは低くても、意味のある貢献ができたのではないかと思っている。

部内だけでは、1パート1~3人程度で、合唱らしい合唱は難しい状況にあった。

そんな中、充実した人数の合唱が楽しめたのは、選択音楽の授業での合唱の他、高音連の活動であった。東京都内の、国公私立の高校の、合唱・吹奏楽・管弦楽・邦楽(筝曲等)を網羅する、音楽関連の部活の自治的連合組織である高音連は、毎年、高校生たち自身の運営によって、地区ごとと全体での音楽祭(「地区音」と「中音」)を開催していた。

そういう場では、数校から十数校連合し、数十人規模の合唱を合同で披露することができた。学区内の他校と、合議して演奏曲や指揮者を誰にするか決め、持ち回りで練習場所を設定し、各パートリーダーを選出し、曲の解釈を議論したりして一緒に演奏を作り上げた。公立・私立、共学高・男子校といった垣根を越えた仲の良い仲間ができ、特別な思い出となっている。

それと同時に、私たち以外にも、一学年数名以内、場合によってはもう最後の一人しかいないという合唱部が複数存在し、合唱部を持たない高校も数多くあって、合唱という音楽スタイルが流行っておらず、衰退の傾向にあろうことが肌身で感じられた。

但し、この時期の私を突き動かしていたのも、合唱すること自体の原初的な愉しみであり、その愉しみが不当に衰退していくことへの抵抗である。「演奏を通じて人に何かを伝えたい」という思いが仮にあったとしても、それは合唱をすること自体の愉しみを、ということであって、楽曲自身の持つ何かをとか、私たち自身の感情や考えを、ということではなかった。そして、合唱界を維持すべしという思いが第一であって、個々の合唱団や部活を特別に維持するという発想にはなかったのである。

高校生時代は、部活動として、そして2年生のときにはその部長として表立って活動していたので、合唱は、趣味や関心事の中で上位に浮上していた。しかし、この高校生時代においても、全体の中で、なお宗教の問題よりも低い関心事であった。その一方で、願わくは、人数を気にすることのない充実した環境で合唱をしてみたいという飢餓感が残っていた。


(最終更新2010.12.4)

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