私の音楽観

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聴衆伝達型でない音楽

現代社会で、音楽に関わる人たちの中には、様々な役割・立場の人たちがいる。例えば、楽器製作者、ホール設計者、音響機器製造者、音楽メディア制作者、広告代理者、資金支援者、音楽教育者、楽理研究者、楽譜出版者、著作権管理者、等々。

しかし、その中でも、「作曲者」―「演奏者」―「聴衆(鑑賞者)」という三項は、音楽がこの世にあるための骨子として、多くの人の脳裏に浮かぶのではないだろうか。「作曲者」という項には、広く、編曲者や作詞者・訳詞者なども含まれることとする。楽曲の書き手である。「演奏者」という項には、指揮者や、舞踊などでの共演者、舞台スタッフなどが含まれることとする。「聴衆」という項には、ホール等の客席で聴く人と、音楽メディアを買って聴く人を両方含むこととする。

「作曲者」が書いた曲を、「演奏者」が金銭で買う。そして、上手な「演奏者」による演奏を、「聴衆」が金銭で買って聴く。それが、基本的な商業音楽のモデルであろうと思う。このモデルに沿って、「作曲者」や「演奏者」は楽曲や演奏にメッセージを込め、「聴衆」に受け入れてもらうために、広く深く伝えようとする。そのことが、音楽に当然のこととして、広く常識化しているように思う。

さて、話変わって、私は音楽好きの一人である。

ところが、私の音楽の楽しみの中心的部分は、プロの「作曲者」や「演奏者」が誰一人いなくなっても、ほとんど損壊を受けないのである。その結果、楽譜やCDやその他の音楽メディアが全く流通に乗らなくなっても、あまり関係がない。

なぜかと言えば、私が最も好きな音楽との関わりは、自分一人で即興的にイメージしたり演奏することにあるからである。演奏には、声や、口笛や、最も単純な構造のエアリードの笛でもこと足りるから、仮に楽器の製造が滞ったところで、大した問題ではない。この楽しみ方は、私が小学校低学年の頃に遡るものであり、私にとっての音楽の原点である。

実際のところ、私は、自分の私的に思い浮かべる音楽世界と同じものを、他の人が演奏しているのを聴いたことがない。そして、どんなに高名な作曲家の曲であろうと、大抵、どこかを改変したいと感じてしまう。演奏を聴きながら、自然と、即興で勝手に別な音のイメージを付け加えたり、削ったりしてしまう。誰も私のために作曲しているのではないのだし、自分の音楽性を全面的に反映した自作のイメージが一番気持ちよいのは当り前であろう。

そういうわけで、私は<「作曲者」―「演奏者」―「聴衆」>モデルを疑ってかかっているのである。

糊口のためという目的でなければ、他人に届けるために音楽をする、という必然性はないのではないか。

例えば、ヒンドゥー教の礼拝で、バジャン(讃美歌)を歌う。これは、会場に居る全員が「演奏者」である。仮想される「聴衆」は「神」であって、全員がその祭壇の方向、同じ方向を向いて座っている。ハルモニアムを弾いたり、タブラーを叩いたり、歌を唱和したり、いずれにせよ皆が音楽に参加していて、耳を澄ませて演奏を賞味しているだけの人間は、そこにはいない。ましてや、お金を払って音楽を「消費」している人はいない。

そして、その方が、舞台と客席で人が対峙する音楽のあり方よりも、私には気持ちよいのだ。一番良いのは、音楽自体が瞑想と渾然となって、周囲のことや時間のことなど忘れてしまえるときである。誰か聴いているかどうかも忘れて、そして忘れたままでいたい。

また、私は、少年時代から断続的に、合唱活動をしている。

合唱の練習というのも、指揮者や伴奏者を含めて、同室の人は基本的に音楽を演奏する側に参加している。練習している間は、「聴衆」はいないし、少なくとも<本番だと思って>聴いている人はいない。その分、音楽そのものに集中できる。だから私は、練習が好きである。練習で幾度となく繰り返し演奏する音楽が、私にとっては正味の音楽である。

ところが、本番は、舞台に立って意識して客席の反応に対峙する。そして、プログラムや進行予定に縛られ、普段よりも歌いにくい衣裳で、積み重ねられた演出から外れないよう気を遣いながら、疲れを蓄積しつつ演奏した挙句、大抵の場合、もう同じプログラムは演奏しないのである。ひょっとしたら、一生で最後になる曲もあるかもしれない。この「最後の一回の演奏」に釈然としないのは、私だけではあるまい。大勢の仲間が協力してこの時を目指しているはずなのだが、本番を練習より幸福だと感じたことは一度もない。

私にとっては、本番を目指して練習があるのではない。練習の場で数多く演奏するために、演奏期間の区切りとして、本番が設けられているのである。

私は音楽が好きである。

しかし、他人の音楽を聴くことで感動したことは、片手で数えられるくらいしかない。基本的に音楽は、考え出したり演奏したりして楽しむものであって、静かに聴くだけでは僅かな楽しみでしかないのだ。だから、日常生活の中で、誰かの音楽を楽しみに聴く時間は、非常に短い。特定のアーティストを追いかけたこともないし、特定の楽曲を聴きまくったこともない。

だから私は、その人のために紡いだり演奏するわけでもない音楽を、敢えて聴いて欲しいとも思わない。ましてや、客席を満員にしたいなんて思ったこともない。そもそも、自分が聴く側に立ったときに、客席はすいていて欲しいではないか。なるべくなら、自分の両隣りとすぐ正面の席くらいは、空いていて欲しい。でないと、大抵のホールでは、気分的に窮屈で仕方ない。音響のことを考えても、吸音体が少ないところで聴く方が贅沢である。

もっとも、こんなことを平然と公言していられるのは、私がアマチュアであって音楽から利益を得る立場にないことと、幼いころから独り遊びの才に恵まれているためである。仲間のいるときは、仲間がいなくてはできない音楽も喜んで享受するし、私なりに義理は大事にしているが、仮に総好かんを食って自室に籠っても、音楽の楽しみは無数にあるのだ。


合唱界の内閉性は「問題」なのか

私などがとやかく言わなくとも、合唱という世界は、十分に聴衆伝達性の低い世界である。

作曲家は合唱団に歌われるために曲を書き、合唱団の演奏会を聴きに行く人の殆どは、やはり同様に合唱を趣味にする人か、団や団員の縁故者である。また、半ば強制的に合唱に触れる学校の場を離れると、合唱を趣味にしない人が合唱を聴く機会は非常に乏しい。どんなに伝説的な名曲であろうと、テレビで「懐かしの合唱曲特集」といった番組が流されることはまずないから、社会一般に流布することはない。

自治体ごとの「合唱祭」でも、その露骨な表れを見ることができる。合唱関係者以外が楽しみに聴きに来られるということは稀だし、合唱団員でも、自分の興味のない団による好みでない曲の演奏を聴くのは苦痛であるから、お目当ての演奏の時以外はなるべく席に居たくないのである。もっとも、それでは客席がガラガラになる恐れがある。だから、自団の演奏のための集合前または演奏後に、少なくとも何団体分聴きましょう、などという規定を、わざわざ設ける場合もあるほどである。

即ち、合唱界、とりわけクラシカルな曲を主に演奏するアマチュアの団による世界というのは、合唱曲を書いたり演奏したりする人たちが即ち聴く人たちであって、その外部の聴衆というのは非常に限定的である。少なくとも私にはそう認識される。家族や同僚や、合唱関係以外の友人たちが、好んで聴きに行こうという反応を示すことはなかなかない。言い換えれば、合唱界は内閉的なのである。

このことは、合唱をもっと大衆に受け入れられるものにしたいと考える人たちにとっては「問題」と受け止められるようである。確かに、ファンとしての聴衆が演奏やパフォーマンスやイメージを消費する、ポップスなどの世界とは、かなり異質である。

しかし、上述の議論で分かるように、合唱界のこの内閉性が、私にとって合唱界を比較的居心地のよい場所にしているのである。私は、聴くだけの合唱ファンを増やしたいなんて思ってはいない。合唱を外向けのパフォーマンスとして演奏することも間違ってはいないが、合唱の本来的な愉しみは、アレンジしたり演奏したりすることにあるのだ。「演奏している当人たちは気持ちいいけれど、外から聴いたら何が楽しいのかさっぱり分からない」というタイプの曲も、積極的に生き残らせるべきである。

また、何かメッセージを伝えるという目的に当たって、合唱というのは、すこぶる効率の悪い手段だ。

楽曲を書くにしても各パートの沢山の音符を書く手間があるし、大勢の演奏者を確保して楽譜を配り、場所と時間を確保して集まって何度も練習し、舞台を設定して演奏するのはその一回というのがほとんど。そして、それを聴くのは会場となったホールに入れる人だけであるし、初めて聴いて覚えられるような曲はまずないから、それが歌い継がれるにもまた大きな手間がかかる。

だから、もし伝えたいメッセージがあるなら、合唱曲にして歌ってもらうなんて形を選ばない方がいい。もしも、学校の音楽の時間を通じてとか、諸宗教の礼拝や集会の時間を通じて、その内部で広めようというのなら別であるが。あるいは、書いた合唱曲を、最近流行りのボーカロイドによる合唱団で演奏して、それを動画サイトにアップする方がよほど効率的ではないか。

だから私は、合唱界全体として、聴衆伝達性を第一の目的にする必然性はないと思っている。そんなことをしなくても、音楽は成り立つし、合唱の魅力の核は別のところにあるのだから。

合唱界は内閉的であっていい。


(最終更新2011.1.15)

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