代音唱法の考察

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唯音名論の検討(1)

一つの音を呼ぶのにも、その音のいろいろな側面を、様々な言い回し、幾種類もの言語で呼ぶ呼び名がある。既に見てきたように、音名・階名・音度名などが、私たちの身近に知られている。音の呼び名は、一種類で用を足すようにした方がいいのであろうか、それとも幾つもの種類を使い分けることに意義があるのだろうか。

例えば私がピアノの練習をしているとしよう。私は、目の前の五線譜と、指の下にある鍵盤との位置関係を知りたいし、それ以上のことは当面、分からなくてもいい。ト音記号の付いた五線の、下第一線上にある音符に、調号も臨時記号も掛かっていないことを確認し、それを「ツェー(C)」と読む。それは、中央の鍵穴から少し左にある白鍵に対応していると、私は知っている。そして、右手の拇指でそれを叩く。……

この場面で「音の名前」は、1種類で必要十分である。それは即ち、いずれかのタイプの音名である。ピアノの鍵盤は、一つ一つが音高と対応していて、演奏中に変更或いは調整されることはない。楽器の中でも有数の広い音域を誇るものであるため、音域別のピアノが使われるということもない。従って、叩く鍵盤を選ぶことが、出る音高を決める必要十分な作業である。楽譜を再現するためには、楽譜の表記と鍵盤を対応させるための、音名を知っておきさえすればよい。そして、ひと度、楽譜に書かれた音高に対応する鍵盤を叩く練習が実れば、そのまま楽譜に書かれた音楽を味わうことができる。

音の名前は1種類でよいという立場の例

上に示した例のように、音の名前が1種類でも済む場面は沢山ある。1種類の楽器を使って、楽譜を読んで演奏する場合は、大抵そうであろう。そこから敷衍してかどうか、音の名前は1種類で十分、或いは教育的には1種類で何とかなると考える方たちがいるようだ。

著作の例示

例えば『究極の楽典 ――最高の知識を得るために』(青島広志著:全音楽譜出版社)には、こういうくだりがある。

(1)五線と音部記号

(前略)

また、音部記号によって音名が規定されてしまったのですから、ソルフェージュ(読譜)は、正しくは固定ド唱法によらなくてはなりません。わが国では、Cやハは音名、ドは階名というおかしな理論が通用しているようですが、Cはドイツ・イギリス系、ハは日本、そしてドはイタリア系の音名なのです。これは、ソルフェージュの源であるソルミゼーション(Solmi- zation)が、グィド・ダレッツォによって創始されたところに由来する、古くからの習慣です。もちろんこの時期は、長調・短調が確立されていませんでしたが、音楽はそののち調性音楽一辺倒のバロック・古典派を経て、また調性の崩壊に達します。移動ド唱法は、西洋音楽の狭い時代の狭い分野にしか用いることができないのです。

(上掲書:p.21)

この著作で、作者は、唱法として大きく音名唱法と階名唱法とを説明してはいる。しかし、階名唱法にもそれなりの利点はあるけれども、それが音楽教育の初歩の段階や調性音楽の歌唱という「ごく狭い範囲」でのことだと断じ、なるべく音名唱法だけを行うことを推奨している。それどころか、音名・階名の「二重の名前」があることを、「おかしな理論」とまで形容しているのである。

同時に、ドレミがその創始時点から音名であった、と主張し、調性音楽を歴史的・地理的にごく短い時代の特殊な事象であったと位置づけていることが分かる。

階名唱法(移動ド唱法)

(前略)

移動ド唱法は、アルファベットを音名としていた国、イギリス・アメリカ・ドイツ・カナダ・ハンガリーなどに採用され、ドレミを新たに階名(音階の各音を表す名称)として呼ぶようになったのです。つまり移動ド唱法には、読むためのドレミのほかに、固定した音の名称であるABC……が同時に存在するのです。この唱法は、18世紀半ばに、啓蒙運動の所産として民衆への音楽普及のために生まれ、19世紀に入って、音楽の一般教育のために用いられました。しかし、移動ド唱法を採用している国であっても、近年に至って、専門教育にあたっては固定ド唱法に切り換えるという方法が取られるようになってきました。

(上掲書:p.28)

このくだりでも、作者は、「ドレミは本来的に音名であって、ABCを音名としていた国は特殊である」、そして、音に音名・階名という二重の名前が付けられることを、「特殊な時代背景に基づいて行われた、偶発的なこと」と主張している。さらに、現代では、西洋中心の啓蒙主義的傾向が薄れ、調性音楽も廃れたことで、その偶発的要因が取り払われ、階名不要という立場がより主流となってきていると示唆している。

このように主張するこの著作は、その序盤に宣言した通り、その後は全く階名に触れずに論を進めるのである。

この著作の立場に対する私の見解

この立場は、まず、歴史の理解を誤っている。

上掲書のp.19に作者自身も書いている通り、発明当初のドレミは、シを欠いた6個しか音節がなかったのである。もしこれが音名だったとするなら、ラと上のド(当初は"Ut")との間は、増二度で、その間に音はなかったというのであろうか。そんなことはない。ドを"C"とするなら、ラは"A"であって、その間には、"B"という音が当時からあったのである。「音名」なのに、使っていた音高にわざわざ名前を付けなかったというのだろうか。

合理的に考えれば、七音音階のある音楽文化圏なのに、6個しか作られなかった音節セットが、音名ではなかったことは容易に推論できる。音名というのは、古代支那や日本でのように、12半音があるなら12個平等に名前が付けられるのが最も合理的なのであるから。

ドレミの歴史を学んだことがある人ならば、オクターヴに達しない6個の音節で実際の楽曲を歌うために、一つの音高の音をドレミのある音節から別の音節に読み替えること(ムタツィオという)が、中世後半からバロック期まで、大切な技法だったことを知っているだろう。つまり、"c"という高さの音は、「ド」でもあり、「ファ」でもあり、「ソ」でもあったということだ。1つの音高を様々に読むものが、果たして音名だろうか。

ドレミの原型を提唱したグイードは、こうした、どの音高の時にどのドレミを歌うことができ、どうやって読み替えができるかを、手の指の関節で覚える「グイードの手」という暗記法も考案したとされる。当然ながらその理論で、各音高は、アルファベットによる音名で呼ばれる。音名とドレミ階名を使い分けることが、創始したグイードの趣旨だったのである。

だから、日本などで、音名と階名を使い分ける教育方針をとっているのは、おかしな理論ではなく、本来の趣旨通りである。また、東アジアの楽典では、さらに紀元前の昔から、音名と階名を使い分けているのであって、私たちの伝統通りと言うこともできる。

次に、階名の本来の趣旨を誤っている。

階名というのは、もともと、調性に関わらなくてもよいものである。なぜなら、音程を取るための物差しだからだ。本来の6個時代のドレミで、読み替えを繰り返せば、ちょうどオクターヴ差の音でさえ、互いに異なるドレミで読まれることになる。それでもドレミに画期的な意義があったのは、音節間の音程が固定されていたからである。

つまり、ド―レ間は長二度だけれど、ミ―ファ間は短二度。ド―ミ間は長三度だけれど、レ―ファ間は短三度。ド―ファ間は完全四度で、悪魔の音程と呼ばれた増四度については、当初のドレミではわざと読めなくしてある。その仕組みこそが、階名本来の核となる用途である。

だから、歌う間に何回スライドして読み替えてもよく、読み替えて活用する練習が階名練習では非常に重要なのである。短二度から長七度、そして完全八度まで、近代以降の7音節揃った階名セットには全て含まれている。ましてや、派生音付きの階名ならば、もっと自由が効く。旋律の一音ごとにでも階名をスライドさせることを考えるならば、著しく調性の不安定な音楽であっても、階名は使えるのである。

無調性の十二音技法の作曲であっても、一つのモチーフを移高して別の場所で使うということはありうるが、階名を応用して一つを覚えておけば、別の音高でも同じように歌える。

階名では半音階に弱くなる、というのも一種の決めつけである。私は音名唱などは実践したことがないが、半音進行で1オクターヴくらいの連続昇降は平気で歌うことができる。絶対音感を持たずに、派生音なしでの音名唱をしている人には、それが出来ない人も多いのではないだろうか。

三つ目に、調性音楽の立場を過小評価している。

洋の東西を問わず、何らかの調性を持つ音楽が、殆ど常に多数派を占めてきた。それは現代でも変わらない。何しろ、調性音楽を時代遅れかのように論を始める上掲書でも、音組織や和音について述べるときに、常に広義の調性音楽を念頭に置いた話しかしていないくらいなのである。

一般人が耳にする音楽、奏でる音楽、買う音楽を一望してみて欲しい。古典邦楽・民謡・童謡唱歌・クラシック・ジャズ・演歌・ポップスなど、あらゆる所に調性が溢れているのではないのか。無調性音楽が「現代音楽」として登場してから凡そ一世紀が経とうとしているが、売上一位を記録した無調性音楽、ミリオンセラーを記録した無調性音楽がこれまであっただろうか。口ずさみたい音楽として無調性の曲を挙げる方がどれだけおられるだろうか。客観的な趨勢として、調性を持つ音楽が今もって主流である。

従って、これから音楽に触れる人も、触れる音楽の大半は調性音楽だと考えられる。無調性音楽でも使える階名だが、調性音楽でより優位性を発揮することは論をまたない。よって、今後とも階名教育は有意義である。

以上のように、この著作の場合は、この論点について誤謬が多い。従って、明らかに誤った論調であると私は判断している。

(つづく)


(最終更新2012.11.18)

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