代音唱法の考察

大歓喜トップ >> 代音唱法の考察 >> 音度・旋法・音度名(1),(2),(3),(4),(5),(6)

音度・旋法・音度名(5)

調性という言葉も多義的であるが、ここでは音楽において主音が感じられる性質と定義する。調性にはどのような分類ができるであろうか。

旋法性と調性

私はここで、調性のほかに、旋法性という用語を提起する。旋法性とは、旋律において規則性を持つという性質のことである。

旋法性ということ

旋律が一定の作法に基づいておれば、その音楽は「旋法性がある」ということになる。無調性の音楽がいくらでもあるのに対し、「旋法性のない音楽」は、殆ど「旋律のない音楽」と同義である。

まず、調性のある音楽は、全て旋法性のある音楽である。そして、無調性の音楽でも、音高感の楽音を使い、音高に音楽的意図があるならば、その大半に旋法性を認めることができる。

中でも、十二音技法に基づく無調性音楽は、調性感をなくすために特有の規則に基づいて音列の形を定め、幾つかの典型的な手法に従ってそれを変奏・展開する。結果として主音は感じられなくとも、独特の意図に基づく作法に従った旋律であることは明らかであるから、それは旋法性があるのである。オクターヴを12等分している時点で、四分音や六分音等々の持つ独特な感じを徹底的に排除しているのであるから、すでに十分に規則的だと言わざるをえない。もっと極端にすれば、例えば一曲の間に一度も同じ音高が登場しない(全て微分音的に違う音とする)音楽も作ることができる。当然ながら主音がないが、意図的にそうしているなら、それにも旋法性は認めることができる。

また、2つ以上の核音を持ち、どれが主音か甲乙つけがたい音楽や、互いに異なる主音を持つ旋律を奏でる声部を重ねた音楽など、複調の音楽も、旋法性を持つ音楽である。

それに対し、音高感のない音を主に使う音楽や、音高の殆ど変化しない音楽、また、音高が変化してもそのことに意味が与えられていない音楽は、旋法性がない。つまり、リズムパートだけで終始する音楽や、響きの中での微妙な音色の変化を主な楽しみとする音楽などである。

様々な調性

調性を持つためには、まず旋律だけでも可能である。旋律の中での音の運ばれ方・長短・強弱などによって、主音がどれかを示している場合、それを旋律的調性と呼ぶ。

続いて、主旋律を補助する、声部とまでは言えない他の音が重なることによって、主音の位置を補強している音楽がある。ずっと一定の高さの音が鳴り続けている場合もあるし、分散和音的に奏でられていることもあるし、その構成音が移り変わることもある。また、遅れて追随するような副旋律を持つ場合もある。そのようにして示される調性を、重音的調性と呼ぶ。

また、ほぼ対等な複数の旋律を持つ、多声音楽(ポリフォニー)に基づく調性を、多声的調性と呼ぶが、これと重音的調性が複合的に機能する場合もある。

さらに、主旋律に対して他のパートが平行的に加音する、和声の形式に基づく調性が、和声的調性である。そのうちでも、三度音程の積み重ねを重視し、主要三和音に代表される、和音の三つの機能に基づいて和声を進める、機能和声による調性が、機能和声的調性である。

近代ヨーロッパの文脈では、調性といえば専ら機能和声的調性のことであり、いわゆる長調か短調に則っていることである。しかし、私の文脈では、単に調性というだけでは、機能和声があてはまることを意味しない。単旋律や、それに持続音(ドローン)が加わっているだけの場合もあるし、和声というときの和音の基本形ももっと多様である。

調性と調趣

なお、調性に関係して、各調ごとの雰囲気の違いが論じられることがあるが、私はその各調ごとの特徴のことを調趣と呼ぶことにする。文字通り、各調の趣(おもむ)きということである。(※ 調色という言葉は「色彩の調整」「絵の具の調合」などを意味するから、この意味では用いない。)

但し、旋法において、主音とその他の構成音との音程関係()が異なる場合(典型的なのは、いわゆる長調と短調の間の違い)や、主音以外の構成音の役割関係()が異なる場合(例えばヨーロッパの教会旋法で、正格旋法とそれに対応する変格旋法の間の違い)は、趣きの異なることがはっきりしている。それらは、それぞれ相趣格趣と呼んで、問題となる調趣と区別する。調趣とは、旋法の音構造が互いに相似でありながら、全体の音高が変わる(つまり、移調される)だけで起こる、雰囲気・趣き・個性の変化のことである。調趣を感じる個人がいるところまでは明らかだが、それが相趣や格趣の場合に比べて少数であり、各調に割り当てる趣きのあり方も個人差が大きいことから、普遍的に存在するのか、普遍的だとすれば何に起因するのかが問われるのである。

考慮すべき要因の第一は、不均等な音律である。音律は多種類があるが、平均律でない音律は、構成音の間の音程が不均等であり、調が変わると、主音とその他の構成音との音程関係が、微妙に変わることが多い。そのことによって、音程の協和の度合いが変わり、耳にしたときの印象も変わる。調が変わるにつれて、厳密には相も変わっているのである。だからこれは、本当の意味での調趣とは言い難い。また、音律は多種類あるので、どの音律を採用するかで、各調の印象も変わってしまう。

考慮すべき要因の第二は、楽器の規格である。各楽器は、合奏のときのことを考えて、特定の大きさ、特定の構造に揃えて作られる。その時に、ある音高と別の音高とで、少し音質や響き具合が違うということが、広く定着してしまう。現代では、各音高に響きのばらつきがないように楽器の改良が進んでいるが、かつては、響きにばらつきがある方が秩序立っていて美しいとする価値観もあったことがあり、そういう楽器が使われていた。この場合は、移調すると、音質の分布が変わるのであり、それによって格が変わったように聞こえるのである。楽器の種類によって、どの音が鳴りやすいかは違ってくる。だから、何調はどれそれの楽器が鳴りやすい調、また別のこの楽器の音がくぐもって聞こえる調、などという評価が起こるのである。しかしこれは、便宜的な規格の存在によって起こっていることであるから、本質的な調趣ではない。

考慮すべき要因の第三は、過去の印象の蓄積である。絶対音感のある人が、いろいろな曲を聴いてきた中で、曲を調と結び付けて覚え、曲の印象を調に転嫁することは、ありえそうなことである。楽譜の読める人が、楽譜を見ながらいろいろな曲を奏でてきた場合も同じである。この調の印象は、と振り返ったときに、過去のその調の演奏の記憶を参照し、過去に聞いた曲の印象の最大公約数をその調のものとする。そして、自分が曲を書く際も、ふさわしい調としてそれを選ぶ。そうして、伝統として各調の雰囲気が醸成されるという面がある。しかしこれも、本質的な調趣とは言えない。

さらに、共感覚のある人の中には、音高ごとに異なった色が見えたり匂いを感じたりする人がいて、そういう人たちには、半音ほど調が変わるだけでまるで色彩が違って感じられる。しかしこれも、感情・情趣ではなく感覚であるから、本質的な調趣とは言い難い。また、共感覚の中身は個人差が大きく、例えば「C の音なら共感覚者には誰でも決まって赤色に見える」などというわけにはいかないので、普遍性がない。

こうした要因を除いたうえで、さらに調趣が普遍的に存在するのか、ということになると、否定的あるいは懐疑的な論調が多数であるように思える。私はインド古典音楽のことを考えるのであるが、非常に細かく旋法を分類し、それらと情趣を精密に結び付けている音楽であるのに、音名の概念を持たないのである。つまり、旋法の相格のことは細かく規定するのに、調のことは全く無視し、何調であっても同じ情趣と結び付くことを暗黙の前提としている。そのことを考慮すると、調趣は、もし存在したとしても、相や格に基づく情趣の違いよりも微々たる違いしかもたらさないものなのではと思えるのである。

(つづく)


(最終更新2012.2.7)

大歓喜トップ >> 代音唱法の考察 >> 音度・旋法・音度名(1),(2),(3),(4),(5),(6)