声楽と音度名唱

 ※音度名唱「拡張移動サ」の全体を概観するには、拡張移動サ音度名表をご覧ください。

大歓喜トップ >> 声楽と音度名唱 >> 西洋式音名階名略史

西洋式音名階名略史

西洋音楽の階名「ドレミ」が7つ揃ったのは、インド音楽のサルガムが7つ揃ったのよりも、少なくとも約1,500年は遅いと考えられる。また、中国音楽の階名と音名である五声十二律と比較すると、ABC順の音名に加えて「ドレミ」の原型の6つの音節が発明されたのは、約2,000年は後の時代だ。

現代でこそ、近代西洋に整備された楽典が標準のように地球上を覆っているが、歴史上を通じてヨーロッパが常に音楽やその他の文化の先頭を走っていたわけではないのである。だから、音楽史を語る上で西洋は不可欠であるが、それだけでは片手落ちとなる。

それにも関わらず、ここで西洋を中心に私なりの理解をまとめるのは、西洋音楽での音名と階名の経緯について、楽典の本を出すような先生方の間でも異見があるようであり、それが現代日本の代音唱法、即ち、固定ド・移動ドといった唱法の評価に影響しているように思われるからである。

具体的に私が危機感を抱いたのは、『究極の楽典 ――最高の知識を得るために』(青島広志著:全音楽譜出版社)の記述である。この著作での記述を読むと、まるでイタリアでは「ドレミ」の原型成立当初からそれを「音名」として使っていたかのようにしか受け取れないのである。一部を抜き書きすると、以下の如くである。

イタリア式の音名

まず、イタリア式の起源は、11世紀前半にグィド・ダレッツォが「聖ヨハネ讃歌」の各フレーズの開始音の歌詞によってUt、Re、Mi、Fa、Sol、Laの六つの幹音名を定め、後にこのUtがDoに換わり、さらに第7番目の音であるSiが加わって完成しました。……

(上掲書:p.24)

音名唱法(固定ド唱法)

(略)……

この中で、最も広く用いられているのは、歌いやすさの点からもドレミの音名で、これが固定ド唱法と呼ばれます。つまりドレミは、その発生から即して、固定された音名として扱われているのです。

(上掲書:p.28)

如何であろうか。これらを素直に読めば、ドレミの原型は今のイタリアで発明された当初から「音名」であり、それが本来の用法であったという理解に至る。しかし、私の音楽史理解からすれば、ドレミが最初から音名であったというのは誤解である。オクターヴ周期になる前、発明当初から、ドレミは高低にスライドする階名であった。こうした誤解を助長する表現は他にも多数散見される。

西洋音楽に極めて深い造詣を持ち、専門教育の場でもマスコミを通じてでも音楽教育の第一人者として活躍してこられている高名な先生が、「究極」と冠した楽典で、なぜこのような不可思議な記述をされるのか。私の理解の方が誤っているとお考えの方は、ぜひ根拠とともにそれをご教示いただきたいと思う。

古代ギリシアの音位名組織

ヨーロッパで最古の文献記録を残す文明は古代ギリシアであり、そのことは音楽の分野でも同じである。そして、古代ギリシアの思惟の結実は、西ヨーロッパでは一度伝承が絶えてしまい、後にイスラーム文化圏から再移入することになるが、音楽も同じ流れである。但し、具体的な楽曲は、その記録がごくわずかの断片しか残っておらず、それらと考古学的な楽器自体からだけでは、復元ができない状態にある。

古代ギリシアには、音階組織が2通り存在したことが知られている。「大完全組織」「小完全組織」と訳されている。それらの音階は、それぞれ、2オクターヴと、1オクターヴ半の音域を持っている。即ち、現代では音階と言えばオクターヴ周期で耳に聴こえる限り高低に伸びているイメージがあるが、当時の音階は音域が限られ、オクターヴ周期性も持ってはいなかった。

各音に付けられた名称から想定されるには、当時は、オクターヴより、完全四度を4つの構成音で分割するテトラコードが重要な単位であったらしい。いずれの音階組織も、「メセー」と呼ばれる中心音を核に、上下にテトラコードを積む構造をしている。そして、理論用の長い音位名も、歌唱用の短いものも、オクターヴ周期ではなく、テトラコード周期の構成をとっている。

どのテトラコードの音かを完全に示す理論用の長大な音位名についてはここでは全く略すが、歌唱用の音位名は、各テトラコードについて、下から「タ」「テー」「トー」と呼ばれ、その上のテトラコードが連接の場合は最上音は再び「タ」となり、離接の場合は短い「テ」となる。子音はτのままであって、母音だけα→η→ω→εと交代する。

これらの歌唱用音位名は、中心音メセーからの相対的な音程によって決められるものであった。また、テトラコード単位であることから、もしメセーを固定した上でオクターヴ周期の現代の音名と対比させたとすれば、一つの歌唱用音位名が複数の音名に対応する。

アルファベットの音位名

古代ギリシアと同様、音域の限られた音階組織がその後のヨーロッパでも用いられた。そしてその際、古代ギリシアで中心音メセーだった音や、その1オクターヴ下の最低音プロスランバノメノスだった音を、アルファベットの最初のAに据え、順次アルファベット順に通し番号を振ることが行われるようになった。

しかし、これも最初から下から上の順と決まっていたわけではなく、オクターヴ周期だったわけでもない。つまり、最低音から順に「A,B,C,D,E,F,...K,L,M,N,O,P」と2オクターヴ全体に通し番号を振ったりしていた。これをオクターヴ周期にして、低い方のオクターヴには大文字、高い方には小文字を使うようになるのは、10世紀頃のことだったようだ。

最低音であった低いAの下に、さらに全音下を加えようとするが、それにはラテン文字の大文字のGと区別してギリシア文字の大文字のΓ(ガンマ)が充てられた。他方で、高いオクターヴの更に上には、小文字を重ねた「aa,bb,cc,dd,ee」を置いて、20個の音位・2オクターブ+6度の音域から成る中世ヨーロッパの音階組織が完成する。

但し、この段階でもアルファベット表記は、階名と未分化であり、音名というよりはむしろ音位名と呼ぶのに相応しいものであった。

まず第一に、「b」や「bb」と呼ばれる音は、それぞれ2種類の音程関係を持っていた。これは、古代ギリシアのテトラコードに、連接と離接の2種類の接続方法があった名残である。「a」がそのまま上のテトラコードの最低音の場合は、「b」はその半音上であり、「a」から上に離れて上のテトラコードの最低音が接続する場合には、その間は全音に開くのである(※ディアトニック類に限った話をしている)。どちらが使われても同じ名前に対応することに、修正すべき問題だという意識は持たれていなかった。

第二に、この当時には幹音のみの設定しかなく、一般にいろいろな音が「半音変化する」とか、そのことを表記すべきだいう概念がなかった。基本的に音階はその均のみであったから、楽曲を任意の調(均)に移調するとか、それによって音名が変わるという認識はされていなかったのである。従って、移調に際して変化しない階名と変化する音名とを、対照する必要もなかった。

階名ドレミの起源

西洋の中世には、一人の音楽教育と理論の大天才がいた。それが、10世紀の末に今のイタリアに生まれ、11世紀前半に活躍した修道院僧、グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)である。

グイードの発明は、(1)平行線の間と線上に音符を書く記譜法(→従前の記譜法の改良で、後の五線譜のもと)、(2)6つの音節から成る階名を使って旋律を追う唱法(→後の7音移動ド唱法の原型)、そして、(3)音名階名を手の指の関節及び指先に対応付ける記憶法(いわゆる「グイードの手」)であった。

グイードが「聖ヨハネの讃歌」の旋律と歌詞から、Ut、Re、Mi、Fa、Sol、La の6つの音節を歌唱に用いるようにしたことはかなり知られている。この歌の歌詞や楽譜も、インターネット上や様々な書籍に掲載されている。

この音節群の主旨は、中央に半音の音程(Mi―Fa)があり、それを二つずつの全音の音程が上下から挟んでいることである。この音列を、半音を「Mi―Fa」と歌うような位置に随時スライドして用いることで、どこに半音を含んだ音程があるかを記憶できるようにしたわけだ。

であるから、この音節群で「Ut,Re,Mi,Fa,Sol,La」と歌われる音列は、当時の音名表記を使って記すと、「Γ,A,B,C,D,E」「C,D,E,F,G,a」「F,G,a,b,c,d」「G,a,b,c,d,e」「c,d,e,f,g,aa」「f,g,aa,bb,cc,dd」「g,aa,bb,cc,dd,ee」の7通りがあった。

ということは、6つの音節の発明当初から、例えば「Ut」は、「C」も「F」も「G」も表しうるものであり、その逆に「c」を歌うための音節も、「Ut」「Fa」「Sol」の3種類があったことになる。もし仮に「Ut,Re,Mi...」が音名であったならば、「C,D,E...」と一対一に対応したはずだが、明らかにそうではない。ここに見られる性質は、音名に対する「階名」であり、固定ドに対する「移動ド」である。

但し、6つの音節ではオクターヴの音程に届かなかったので、当時は、一つの旋法で1オクターヴの音階を歌う間にさえ、ムタツィオ(読み替え)をする必要があった。その頻繁なムタツィオに対応するために、どの音名がどの階名と対応しうるかを「Γ ut」「c sol fa ut」などとセットで丸暗記したし、どういう場合にどこで読み替えをすべきかの規則が発達した。

だから、「Ut,Re,Mi」が当初から階名であったといっても、近代以降の移動ド階名唱とは、少し異質である。近代以降では、オクターヴ周期性を持ち、主音の階名が原則としてドかラに決まっているのだから。

もう一つ、合わせて注意が必要なのは、この頃の音名・音位名が表す音高には、まだ統一されたピッチの基準がなかったことである。15世紀頃までは、その日その時で都合のよいピッチを決めて演奏していたらしい。16世紀頃には、多種類の楽器の合奏のためにピッチが意識されるようになったが、当時の楽器資料からは、同時代の楽器でのピッチのばらつきが全音ほどもあったことが分かっているそうだ。1Hzの違いも言い当てるような絶対音感は、古楽とは無縁である。

オクターヴに届いたドレミ

調号としてシャープやフラットが幾つも付く調が頻繁に使われるようになっても、6音節の階名は、まだ当初の通りに、「Mi―Faを半音で歌う」ようにして使われ続けた。7つ目の「Si」の登場には諸説あるようだが、バロック期である17世紀後半から18世紀初頭の時期に登場したものである。つまり、西洋の階名は、7音音階の地域柄にも関わらず、6音節で発明されてから500年以上もの長きにわたって、6音節のままだったのである。

その背景の一つには、三全音(トリトヌス:増四度)の音程が「悪魔の音程」と考えられていた事情がある。というのは、6音節の外側に7つ目を付け加えるならば、それが高低どちら側であれ、全音が三つ並ぶ音列を形成することになるのである。

しかし、18世紀になると、半音の位置を正確に表現するための頻繁なムタツィオ(読み替え)に耐えきれず、部分的に階名をそのままで声だけ半音換えて歌う人が多くなる。きちんとムタツィオをしない人たちが増え、彼らの音程の悪さを嘆く者の声が文献に残されている。

そんな中での「Si」の登場は、解決のための方法を2つ、つまり、階名をオクターヴ周期にして現代と同じ移動ドを歌う方法と、ドレミを音名として用いて固定ドを歌う方法とをようやく可能にした。オクターヴ周期型移動ドの普及には、いわゆる長調・短調という、機能和声に適したオクターヴ周期の旋法が大いに隆盛となったことも関係している。オクターヴ周期が音名Cで区切られるようになったのも、最も使われる旋法である長調を臨時記号なしで書いた主音がCだったからに他ならない。

19世紀から20世紀にかけては、移動ド階名唱に派生音の階名を持ちこんで、和声的短音階や旋律的短音階、そして各種部分転調を吸収する流儀が発展した。「トニック=ソルファ」や「コダーイ=メソッド」が代表的に挙げられる。

日本での受容

東アジアの音楽理論には、もともと音名と階名に相当する仕組みが存在した。従って、西洋音楽のそれを移入するにも、用語を日本語化すれば済んだ。シャープの「嬰」やフラットの「変」は日本伝統の用語の流用であるし、「○○調(子)」という言い方も古来のものである。

イロハ式音名は、ヨーロッパで音名をアルファベット順で呼んでいるのに倣って、日本では日本独自の文字順に、ということで当てはめられたものである。「嬰」や「変」「重嬰」「重変」の付いたものでも一音節で呼べるようにした派生音付き拡張も作られていた。

階名のほうも、ヨーロッパの数字譜(階名の表示に数字を使う)に倣った、日本語数詞式「ヒフミヨイムナ」が小学校教育で用いられたこともあった。これが早いうちから「ドレミ」にとって代わられたのは、日本語数詞式が柔かい発音ばかりで歌いにくかったこともあるだろう。

これに対し「ドレミ」を音名唱法に使うやり方が日本で普及したのは、20世紀後半からのことである。旧文部省の教育方針であった、音名はイロハ式、階名はドレミ(移動ド)が原則という決まりに矛盾して、混乱の元となるドレミ式音名唱法(固定ド唱法)を、相当数の音楽家・音楽教育者が強力に推進したのである。戦後の子供たちにイロハ順がだんだん縁の薄いものとなってきていた背景もあるだろうが、コトバの混乱の可能性に注意できなかった非は否めないと私は思う。

これによって、高等音楽教育や学校外の個人レッスンでは、固定ド音名唱のみで階名唱を行わない方式が圧倒的優勢となった。それを受けて、現場での混乱を避けようとして、小中学校での移動ド視唱の授業も減ってきた。移動ド階名による視唱にメリットを感じるためには一定の訓練が必要であるから、実践したことのない人が増えるとますます劣勢になる、先生も教える能力がなくて教えなくなる、という負の循環で、このところ移動ドは衰退してきている。一方で、一般の合唱団などでは、純正の音律を整えるための補助として、熱心に移動ドを推進する指導者もいる。

音楽教育の混乱は21世紀になっても続いており、若い層では、同じドレミを使うということから、移動ドの存在にさえ気がつかず、音名と階名の概念の区別のつかなくなった人が増えてきている。音楽に興味を持たない人の中には、音感の極めて悪い層も新たに生じてきているらしい。言葉と概念の仕分けに決着がつくことを、切に願うばかりである。

最後に

上掲書の青島広志氏などは、階名の重要性を、初期音楽教育の補助や古い時代の残滓程度にしか認めていないようだ。そもそも、この書籍の中で、階名とは何かについて独立した章や節を立ててはいないのである。それどころか、以下のような記述がある。

階名唱法(移動ド唱法)

(略)……

…… 移動ド唱法は、アルファベットを音名としていた国、イギリス・アメリカ・ドイツ・カナダ・ハンガリーなどに採用され、ドレミを新たに階名(音階の各音を表す名称)として呼ぶようになったのです。つまり移動ド唱法には、読むためのドレミのほかに、固定した音の名称であるABC……が同時に存在するのです。……(略)

(上掲書:p.28)

このような記述は、ドレミがその原型の発明当時から階名であった(即ちイタリアやフランスにおいてもドレミは固定した音の名称ではなく、音名・音位名としてはABCを使っていた)し、そのような期間が500年以上も続いたという事実を歪めている。そればかりか、音名と階名が二重の音の名前として存在することが異常であり邪魔であるような口ぶりである。ヨーロッパでも東アジアでも、歴史上、音楽の仕組みとして二重の音の名前が使われていたのが事実なのに。もしかすると氏にとって、階名は音楽の本質とは関係ないもの、或いは古い死んだ音楽に属するものなのかもしれない。

上掲書で青島氏は、音律が不得手であるから他の執筆者に任せた旨明らかにしているが、この青島氏のまるで階名が邪魔者であるかのような無邪気な唯音名主義的スタンスは、音名階名の歴史への誤解のほかに、多分、その音律についての暗さにも起因していると思う。音律の複雑さ・多様さを理解していれば、今スタンダードに使われている音名、特に十二平均律でオクターヴを12等分するそれが、いかに不十分で頼りないものであるかがすぐに分かるはずのものであるから。世界の音律がいかに多様であるかは、上掲書の中にも言及されていることである。

私は、音楽の本質は音高や音名よりも、音階や旋法の方により大きく依存すると思う。だからこそ、世界各地でその地域固有の音階や旋法分類体系が生まれ、音程関係が精密に議論されてきたのだ。中国のように紀元前から音名を持つ楽典体系もあるが、インドのように微分音程名と音度名の組合せだけを使い、絶対的な音高の概念を持たずに運用されてきた楽典体系もある。しかし、旋法や調の種類や名前は、より多くの楽典体系に普遍的に存在する。その中には、半音刻みの五線譜では表現しにくい音楽が沢山ある。だからこそ、それらの音楽の実践はまだ五線譜に移らなかったり、或いは特殊な記号群を導入したりしているのだ。無調性の音楽が登場しても、決して調性のある音楽が廃れてしまったわけではない。古典音楽や民謡からポップスに至るまで、今でも世界の主流ではないのか。

調性音楽の理解のためには、階名(そして音度名も)の概念は有用であり、音楽の専門家が現代でも相変わらず理解しておくべきものだと思う。階名は、音名を理解すれば外してよい仮組の足場ではない。


(最終更新2011.11.7)

大歓喜トップ >> 声楽と音度名唱 >> 西洋式音名階名略史